こんな映画は見ちゃいけない!

映画ライター・福本ジローによる、ハリウッドの大作から日本映画の小品までスポットを当てる新作映画専門批評サイト。

ハイド・アンド・シーク

otello2005-04-29

ハイド・アンド・シーク HIDE AND SEEK

ポイント ★
DATE 05/4/24
THEATER 109シネマズ港北
監督 ジョン・ポルソン
ナンバー 52
出演 ロバート・デ・ニーロ/ダコタ・ファニング/ファムケ・ヤンセン/エリザベス・シュー
批評 ネタばれ注意! 結末に触れています


確かに意外なドンデン返しだ。しかしあまりにも取ってつけたような安易な展開で、こんなアホな仕掛けを映画化したことにかえって感心する。しかも、デ・ニーロという超大物とダゴタ・ファニングという演技派子役を使うという贅沢をして。普通のホラーとして描けばいいものを、無理やりひねりを加えようとして自滅した典型的な失敗作だ。


母親が自殺したことで精神的に傷を負ったエミリーは、父親のデビッドに連れられて郊外の一軒家に引っ越す。エミリーはそこでチャーリーという友人を作るが、チャーリーは誰の目にも見えない。日ごとにやつれていくエミリーを心配してデビッドは友人を作ろうとするが、エミリーはすべて拒んでしまう。


デビッドの目から見たエミリーの変化を描いているので、この視点ではどう見ても人格が壊れているのはエミリーだ。しかも、エミリーの行動は自発的。人形の目をつぶしたり父の友人が持ってきた本を床に落としたり、さらには家の様子を見にきた保安官が死ぬ絵を描いたり。母の死がトラウマとなって霊感少女になってしまったような描き方では、悪意の根源はエミリーの心に棲みついていると誰でも感じるだろう。


結局、二重人格になっていたのは父親のデビッドのほうという情けないオチ。妻の浮気に腹を立てて自殺に見せかけて殺した上、チャーリーという別人格になっていたのだ。つまり、エミリーはチャーリーの正体を知っていたわけだ。だからこそ優しい父・デビッドと、遊び相手ではあるけれど残酷な人殺しのチャーリーという二つの人格が頻繁に入れ替わる父親に恐れをなしていたのだろう。その恐怖に耐える幼い少女をファニングは演じるべきなのに、なぜか彼女自身が恐怖の主体のような演技をする。ファニングの演技の質がこの作品を安手の出来そこないホラーにしてしまった。まあ、この少女を責めるより演出家の責任だと思うが。


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