こんな映画は見ちゃいけない!

映画ライター・福本ジローによる、ハリウッドの大作から日本映画の小品までスポットを当てる新作映画専門批評サイト。

神の子どもたちはみな踊る

otello2010-11-02

神の子どもたちはみな踊る All God’s Children Can Dance


ポイント ★★
監督 ロバート・ログバル
出演 ジョアン・チェン/ジェイソン・リュウ/ソニア・キンスキー/ツィ・マー
ナンバー 248
批評 ネタばれ注意! 結末に触れています


美貌の母に溺愛されているゆえか、若者はいまだ自立できず自己喪失感にもがいている。毎夜同じベッドで眠る母親の艶めかしい姿態に性欲を催す不覚を恥じている。“父は神”と言われ続け、妄想と分かる年頃になっても決して真実を語ろうとしない母の呪縛からの解放、それは彼にとって生物学的な父親を探すこと。映画は、母との絆が強すぎたために他人との距離感がうまくつかめない主人公の彷徨する姿を追う。にぎやかなダウンタウンから人気のない郊外の幹線道路、そして荒涼とした空地にぽっかりと口を開けたトンネル…。開発を途中で投げ出したようなもう一つのLAの街が、彼の心の空洞を象徴している。


信仰心篤い母・イブリンに「おまえは神の子」といわれて育ったケンゴは漫然とした日々を送っている。決して本当の父を教えてもらえないもどかしかを抱えながら、ある日カフェで耳が欠損した男を見かける。それはかつて母が寝た男の特徴と一致していた。


ケンゴの周囲で起きる出来事はごく普通の因果関係にあるものばかり。理不尽な不幸に見舞われるわけではなく、そこに“神の不在”を嘆く要素はない。「フライが取れるようにと願ったのに、代わりに巨大なペニスを授かった」とケンゴ自身が言うが、神という概念自体、つまり信仰が彼にはないのだろう。イブリンに連れられて布教に回った経験から“神を信じていない人は世間にたくさんいるが、彼らは別に不遇ではない”と知っているから。だからこそケンゴは自分が人間の子であるとを証明したくて耳欠け男の後を追うのだ。


◆以下 結末に触れています◆


やがてケンゴは細いトンネルの奥で耳欠け男に“Dad”と声をかける。その瞬間男は消え、目標を見失ったケンゴは1人狂ったように踊る。愛されていても誰かを愛することができない、そんなケンゴの己自身に対する欠落感を描こうとしているのはなんとか理解できるのだが、抽象的なメタファーを多用しすぎたせいでつかみどころのない作品になってしまった。