死んでしまった夫への思いを封印するために、ずっと音楽を絶っていた。彼が好きだった歌は耳にしたくなかった。だが、カセットテープは捨てられずにいる。強引に聞かされたその歌を、彼女は、最初は拒絶し、徐々に受け入れ、やがて身を浸すように聞き入る。感極まって流すのは涙ではなく一筋の鼻水。もう泣くまいと決めていた彼女の決意が情感たっぷりに再現されていた。物語は、小さなパン屋を営む母子家庭に、未婚の妊婦が転がり込んだことから生まれるささやかな希望を描く。妊婦は行き場がなく大きなおなかを抱えて野宿している。住民はみなふしだらな女と彼女に厳しい。ところがパン屋の娘は妊婦に興味を持ち、妊婦の意外な才能を発見する。まだまだ男社会のイスラム世界、生きる上で女たちが協力し合う姿がけなげで美しい。
故郷を出て職を探すサミアを、アブラは家に泊める。行く当てのないサミアをアブラはしばらく預かることにするが、アブラがおいしい焼き菓子を作ると、飛ぶように売れる。
アブラはいつも、娘のワルダにもサミアにも取引先にも客にも厳しい表情を崩さない。少しでも隙を見せると女というだけで付け入られると思い込んでいるのだろう。それでも、ひとりで出産して赤ちゃんはすぐに養子に出す予定のサミアよりは恵まれている。自分以上に困難な人生を歩むサミアを放っておけなくなり、やがて彼女を妹のように面倒を見るようになる。サミアもその好意に応え働き者の一面を見せる。戒律の緩い大都市とはいえまだまだ女の人権は制限されているが、支え合うことで小さな幸せは手に入るとこの作品は教えてくれる。
◆ネタばれ注意! 以下 結末に触れています◆
男の子を出産したサミアは、情が移らないに授乳しようとしない。それでも、おっぱいを求めて全力で泣き叫ぶ赤ちゃんを見捨てられない。手、足、頭……まだまだ小さい体のパーツを愛おしむシーンは、母になった喜びと愛情にあふれていた。じっくりとカメラを据えたショットは登場人物の内面に深く浸透し、彼女たちの感情をリアルに掬い上げていた。
監督 マリヤム・トゥザニ
出演 ルブナ・アザバル/ニスリン・エラディ
ナンバー 146
オススメ度 ★★★