娘の顔は覚えている。どんな話をしたかも思い出せる。だが、時々見知らぬ男が家の中にいる。お気に入りの介護士がいつの間にかいなくなったりもする。物語は、認知症を発症した男の感覚を再現する。年寄り扱いされるのは耐え難い。大切な腕時計が盗まれる。自分のフラットが娘夫婦のものになっている。さらに、怒りっぽいうえに頑固、機嫌がいいと思ってもすぐにへそを曲げる。頭の中は妄想で満たされているが、脳内で起きたことはすべて彼にとっての現実なのだ。延々と繰り返される幻覚は、記憶があいまいになっていくのに意思は明確になっていくこの病気特有の症状をリアルに再現する。認めたくはないが認めざるを得ない。やがて認めるという思考プロセスすらわからなくなる。まなざしは知性があふれているのに言動は正反対、そんな主人公の背中が哀しくも切ない。
介護士をクビにしたことを娘のアンに責められるアンソニーは、すっかり忘れている。アンは夫ともにパリに引っ越すため新たな介護士・ローラを面接に呼ぶと、アンソニーは饒舌になる。
脈絡のないエピソードが繰り返される。知っているはずの人物の名前が出てこなかったり、今いるはずの場所が思っているところと違っていたり。因果関係がまったく成立しない夢を見ているような気分になっていく。ごくたまにアンソニーの認知が正常に戻るときもある、たぶん。アンは、またかという視線をアンソニーに送りながらも父を見捨てられない。ひとつだけはっきりしているのは、アンソニーはアンよりも死んだ次女・ルーシーの思い出を大切にしているということ。かつては知的でやさしく理想的な父だったのだろう。その彼が壊れていく過程を見守るしかない家族の苦悩が、アンの深いしわに刻み込まれていた。
◆ネタばれ注意! 以下 結末に触れています◆
やがて徘徊が始まる。施設のベッドで目覚める。アンの夫やルーシーが実は全くの別人だったりする。もはや自分が誰なのかすら理解できなくなるアンソニー。あえて排せつの困難を見せなかったのは認知症患者への配慮なのだろうか。
監督 フロリアン・ゼレール
出演 アンソニー・ホプキンス/オリビア・コールマン/マーク・ゲイティス/イモージェン・プーツ/ルーファス・シーウェル/オリビア・ウィリアムズ
ナンバー 89
オススメ度 ★★★★
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